研究紀要

2018年 7月8日 第13回/9月30日 第14回 珈琲茶会

■茶菓子解説

■ 茶菓子提供者 三頭谷鷹史(美術評論家)

1970年代、芸術から風俗へ 岩田信市と赤瀬川原平
(美術の終末、芸術の終末③)

風俗 ― 注目すべき岩田信市の思考

私が今試みているのは、美術全体に終末論という網をかけて、美術や芸術にまつわる膠着した思考をときほぐす作業である。網目が粗いので、得られる魚は少ないだろうが、まあ、それはそれでよい。一つでも自分の役に立つ魚が得られたら、といった気持ちだ。そんな網をかけてみると、岩田信市が1995年に書いた一文が浮上してくる。終末論的に注目すべき思考が含まれているからである。ゼロ次元の活動を回想した部分が特に興味深いので引用しておこう。

「当時(1960年代)、ハイレッド・センターより一般的には有名であったゼロ次元は、その風俗性ゆえに、今日では評価が低い。当時としては、芸術を蹴飛ばして反芸術の先頭をきって風俗の中に突っ込んでいったゼロ次元なのだが、その風俗性ゆえに忘れられ、ノスタルジーの世界となってしまうのだ。アメリカのように地下鉄の列車に落書きするという風俗をアートに組み込む見識も回路も日本は持っていないくせに、アメリカの後追いをしているというのが現状なのだ。当時も今も人々は云う。新聞の文化欄に紹介されるより社会面に紹介されるほうがずっとすばらしいと。しかし、実際には、やはり風俗は風俗で終わり、芸術は不滅であった。だからこそ僕はいつも風俗の中からの芸術すなわちポップ・アートを叫び続けてきたのである」(「60年代パフォーマンスの再考」注1)。


この回想によると、すでに1960年代のゼロ次元の活動に風俗という認識があったということになる。ただ、ゼロ次元というのは、岩田信市と加藤好弘の二人が中心となり、しかも大きく異なる二人の個性が混融した形の活動であった。岩田と加藤では性格や考え方に相当な違いがあったのだが、それでも岩田だけを抜き出して論じるのはむずかしい。
 しかし、1970年代に入ると二人がはっきりと別れ、岩田の場合は風俗への志向が言動に強く表れてくる。例えば「ゴミ裁判」である。

注1「60年代パフォーマンスの再考」『裸眼ノート』№4、1995年6月、私が企画した岩田洗心館での「岩田信市的世界展」開催直後に私が依頼して書いてもらった文章である。

美術というのは力を失っちゃって

1970年7月、愛知県美術館で開催中の若手芸術家グループNAGの共同創作作品の素材に不潔な生ゴミが含まれていてゴキブリが走っていた、といった理由で美術館が会場を封鎖し、作品を撤去した。この措置に対して出品者側が愛知県を訴えて裁判となり、全国的な話題となったのである。そのため「ゴミ裁判」(「ゴミ事件」)と呼ばれる(注2)。岩田は出品者ではなかったが、早くから抗議活動に加担し、抗議運動を裁判の方向へ牽引する役割を果たした。

岩田がどこを目指したかだが、抗議運動の最初期に次のような発言をしている。「美術というのは、いま力を失っちゃってね、社会とのつながりが何もなくなっている」。だから「別のあり方というのを探している。そういう状態のところに、『ゴミ』の事件が起こった」と。さらに「社会正義の面からの裁判と、芸術という尊大ぶったものを『ゴミ』を通じて風俗化してしまう、という表裏一体の表現行為」という言い方をしている(座談会「通俗性が美術館を攪乱する」注3)。
 また、裁判が始まってからも、「何かを表現するという今までのいやらしい美術とは全に別で、又、オブジェとしての魅力さえ皆無なゴミが作品として出品された事に僕はまるで新しい別次元を見出した」という(「内なるエロス」注4)。
 岩田はゴミ作品の実物を見ていない。彼が見ようとした時にはすでに封鎖されていて見られなかった。もちろん作品写真は見たし、メンバーの説明も聞いている。そして、それで十分だった。彼にとって、ゴミは、芸術の高みから俗へ降り立つ、そのための象徴だったからである。芸術性云々より、むしろゴミという通俗性が重要だったのである。裁判についても岩田独特の考えを公言した。

「今までやられた『芸術裁判』は、ほとんど芸術至上主義につらぬかれた裁判だったわけです。芸術か通俗かという裁判に勝ったところでその結果はどうなるかといえば、芸術が優位である、芸術ならなんでも許される、芸術は尊いものだということにしかならない。そんな愚劣な裁判を否定する、芸術も裁判も闘争もすべて通俗性が優先せねばならぬ、という意味でこの裁判をやりたいわけです」(前掲、座談会「通俗性が美術館を攪乱する」)。

終末論を云々する今の時代なら岩田の考え方に共感を示す人もいるだろう。だが1970年当時では、岩田の発言を理解することはむずかしかったのではないだろうか。抗議運動をする人たちには、その多くに芸術を前提とする観念がある。彼らがイメージしたのは芸術を守る「芸術裁判」だった。少なくとも建前はそうだったはずである。だから美術関係者のなかには、ゴミ作品の芸術性を疑い、抗議運動に荷担しない人も多くいて、名古屋の美術界は分断されたようである。

注2 原告はNAGのメンバーの一部である河村靖雄、宮島孝子、青木達雄、原智彦、河合英治の5名、それに弁護士の井上哲夫と平野保である。

注3 座談会「通俗性が美術館を攪乱する」での発言『C&D』6号1970年10月発行(6月の初校原稿から引用)。

注4 「内なるエロス」『ゴミ姦報』創刊号、1971年1月

裁判なんてつまらんこと

しかし、岩田にとっては、先に触れたように、ゴミの通俗性が重要だった。裁判についても最初期から「僕は裁判にもっていくことを主張していますが、裁判なんて実際はつまらんことですよね」「『法廷で白黒をつけてもらう』なんてそんなバカな期待は全然もってない」「役人の建物なんて最初から限度がある、そこでの闘いなんてまったくつまらん」と平気で公言している(前掲、座談会「通俗性が美術館を攪乱する」)。では岩田が強力に支援した裁判はどうなったのか、通俗性が優先したのかどうか?
 実際の裁判に通俗性の優先は見られない。歴とした弁護士が主導する裁判闘争であり、芸術性を主張する芸術裁判だった。『ゴミ姦報』創刊号に掲載された「訴状」によると、ゴミ作品を近現代美術史の系譜の中に位置づけ、加えてこうも記している。「原告らは内外に知れわたっている如き著名作品とはいえない。しかし、美を追究し、あくなき芸術活動に邁進している点では著名作品に勝るとも劣らない」と。
 「著名作品」は著名作家の誤記ではないかと思うが、それはともかく、明らかに芸術の優位が前提になった記述である。実際の裁判と岩田の望む裁判とでは真反対といってよいくらいだが、それをそのまま呑み込みながら、裁判の外では夢の島でのゴミ巡礼儀式といったパフォーマンスなどを繰り広げていく。また岩田はこの頃政治に興味をもったようで、裁判開始の翌年にはそのことについて発言している。しかも、キーワードはやはり風俗なのである。

「政治運動を風俗化していく、そして一方では風俗を政治に向けていく。この一致点でしか世の中は動かないですよ。たとえばアメリカが今、あれだけ揺らいでいるのは黒人問題だとか徴兵拒否とかで日常の時点よりもうひとつ下の暴動だとかマリファナのまったく風俗的な問題が大きな力になっているわけです。こういう無意識のパワーを意識的に政治に向けていく」(インタビュー「この混沌たる状況をあなたはどこでどう突破するのか」注5)。

さらに、あくまで表現としてという限定付きだが、「もう芸術の分野などという狭い場合ではなく、日常の中、もっと積極的に政治行動の中にもちたい」という。事実、この2年後の1973年には名古屋市長選に出馬している。この市長選、もしかすると彼にとってゼロ次元以上に肌の合う活動だったのではないだろうか。当時の思い出を話す時、とても楽しそうだったのである。
 「このときはね、アメリカで例えばロサンゼルスの市長にヒッピーがなったとかさ、アメリカでものすごくヒッピーが台頭してきて、しかも実際にこういう社会にかかわり出した時代でね。日本でもそれが可能じゃないかみたいな、本当に夢があってね」「日本もそういう時代が来たというんで、本気でやったんだよな。だから名古屋市長選ではあるけども、全国の若者で日本を変えようみたいなところで、日本中から応援に来てくれたな」(「岩田信市が語る岩田信市的世界」注6)。

注5 インタビュー「この混沌たる状況をあなたはどこでどう突破するのか」『C&D』11号 1971年11月発行(初校原稿から引用)。

注6 「岩田信市が語る岩田信市的世界」『現代美術終焉の予兆』1995年4月、スーパー企画

ロック歌舞伎スーパー一座の結成

選挙活動は最初から名古屋の範囲ではなく、誰が出馬するかを決める予備選を東京でおこなっている。支援者の多くが東京だったからだ。予備選の候補は、岩田と九州派の桜井孝身、若手のゼロ次元メンバー矢矧雅英(要確認)の3人であった。そして岩田が選ばれた。
 かくして名古屋市長選が始まるわけだが、やはりと言うべきか、一般的な選挙運動とはかけ離れていた。選挙カーではなく、選挙リヤカーだったし、選挙事務所はテレビ塔の下の広場を不法占拠してテントを張った。選挙演説なども独特で、素朴な寸劇をおこなったようだ。ヒッピー傾向の若者を中心とした選挙運動であり、当然ながら落選。しかし彼の活動はこれで終わりではなく、様々な活動をおこなった。当時さびれていた大須の町おこしに絡んだ短劇などがそうだが、面白いことにこうした活動をへて、かつてのパフォーマンスが自然に演劇化していく。そして1979年にロック歌舞伎スーパー一座の結成に至るのである。

スーパー一座は、岩田を主宰・演出家、ゴミ裁判以降の活動をともにした一回り下の原智彦を座長とする劇団であった。結成後、数々の海外公演をへて、1988年より大須演芸場を定例の公演場所として基本年1回、1991年から大須オペラをレパートリーに加えてこちらも年1回。私の記憶では両方合わせると大須演芸場を約2ヵ月間、昼夜満席にする人気であった。
 すでに見てきたように、市長選の寸劇、町おこしの短劇といった活動をへて演劇化したわけで、芸術ではなく、俗事のただ中から浮上した演劇である。芸術の特権的な臭いはなく、最近の芸術イベントで見られる町おこしのような、上から目線のいやらしさがない。風俗や俗事のもつエネルギーをすなおに受け止めた演劇だった。そのエネルギーが歌舞伎やオペラに結びついたのである。
 しかし、結びつく背景に、その方面について岩田に独特のセンスとたいへんな教養があったことを忘れてはならない。なにしろ彼が生まれ育った大須は大衆芸能のメッカであり、彼の家の近所には芝居小屋が4軒もあったのだ。そうした大須の影響を岩田は否定するけども、やはりあったと私は見ている。芝居小屋の芝居を「一切見てない」というから、本当に見てないの?と聞くと、「うん、子供の頃は。後になって中学校の頃からは裏の芝居小屋へ行って、それも入りびたりというほどじゃないけど、まあわりとよく見とったな。それが歌舞伎だった」というのだ。よく見たのが小芝居の嵐三五郎一座で、「出し物が変われば見に行くという程度」だったと。中学生・・・出し物が変わるたびに・・・やはり普通じゃない。これほど見ていて、「見てない」などと言える感覚が私にはわからない。で、さらに聞いてみた。

三頭谷 小芝居というのは、あれかなあ、大歌舞伎とはちょっと違う異質なものが・・・。
 岩田  そう、そう。大歌舞伎よりもっと泥臭くて面白いの。大歌舞伎がモダニズムに影響されて、上品になってしまって骨抜きされてしまって、しかも、やたら気取ってるのに対して、本来の歌舞伎の味を残しているんだ。岸田劉生の云うデロリとした感じを・・・。
(前掲、「岩田信市が語る岩田信市的世界」)。

洗練されたセンスや高い教養が風俗のエネルギーと出会って生まれたのが、ロック歌舞伎スーパー一座だった。このユニークな歌舞伎を閉鎖的な歌舞伎界の外に成立させたわけで、日本の演劇史上に特筆されるべき内容をもつ。それがいかに独特であり、しかも岩田の個性に影響を受けて成立したか・・・のちに原智彦が主宰した演劇と比較すると明快に分かる。スーパー一座は2008年に岩田の一存で解散し、その後原智彦が別の劇団を組織した。何度か見せてもらったが、まったく違った演劇だった。ある意味、普通に先鋭な現代演劇だったのである。ということは、岩田の歌舞伎は、古典の繰り返しでもなく、一般的な現代演劇でもない。本来日本に成立しなければならなかった、もう一つの演劇だったのではないか。岩田の歌舞伎には、大須オペラとともに、今後再考していくべき内容がある。
 岩田信市の芸術終末は、冒頭に紹介したように、すでに1960年代に始まっていた。少し厳密に言えば、60年代前衛運動の中心的活動を担いながらも、違和感を抱えていたということである。そして1970年代には60年代的前衛からの離脱を言葉と行動で明確に示すようになった。1980年代のロック歌舞伎は、その成果であるが、その正体は何か、アートではなく、エンターテイメントだよと言ってしまえば簡単だが、そんな区分で片づけられない何かがありそうだ。今のところ芸術を脱皮した非芸術的文化と言うほかないのだが、ともかく岩田の活動を観察すると1970年代に芸術の終末が深化し、80年代以降はこの非芸術的文化が成立していたように見える。

赤瀬川原平の終末論

事情は赤瀬川原平も同じではないのか、この点を岩田信市と比較してみたくなる。1950年に愛知県立旭丘高校に美術科が設置され、その3期生が岩田で、同期に親交を結んだ赤瀬川がいた。荒川修作やのちにゼロ次元仲間となる小岩高義もやはり同期である。岩田と赤瀬川の交流は卒業後も続いたようだが、岩田と話をしていて、彼が赤瀬川に共感しているところがかなりあるように思えた。いや、友人であると同時にライバルだったと言うべきか。1960年代、岩田はゼロ次元、赤瀬川はハイレッド・センターでアクションを展開している。冒頭に引用した「60年代パフォーマンスの再考」で岩田がこの二つのグループを対照しているのは、そうした親しさとライバル心の表れと見ることもできる。ともに1960年代を最前線の美術家として駆け回り、自らがこの時代を創りながらも、そのままの道を突き進むことができなかったのである。以下は赤瀬川の1960年代を回想した文である。

「あの時代は無邪気にものがつくられていた。その初発の力はおもに破壊作業で、それまでの美術の歴史に綿々とつづいてきたキャンバスと絵具の関係を壊すことが面白くて、それが結果として新しい作品を創り出していた。そこから絵画とも彫刻とも分けられない作品があらわれてきて、それがさらに固型した作品というもの離れて、ハプニングという行為そのものへ行きつくことになる。そういう新しい開発作業は、いったん始まると一気に作用が進むもので、数年にしてコンセプチュアルアートのような、観念百パーセントの作品にまでストンと行った。あとはもうその先、開発するものがない。現代美術の仕事がなくなる」
(「価値をつくる」注7)。

赤瀬川が創造行為の破綻を自覚したのは意外に早く、1960年代の半ばだったらしい。ただ、そう簡単に芸術から離脱できるはずがなく、大きな苦痛を伴ったと思われる。ある回想で、「芸術圏から脱出するときはちょっと大変だったですね、つまり重力を振り切って出るんだから」「やっぱりかなり自虐的な気持ちがあったですよね。今まで一生懸命芸術をやっているわけなんだから」と語っている(座談「街が呼んでいる」注8)。
 また「創造そのものを否定するところに」立ち至り、「描くものがないということを」描くために千円札の拡大模写作品や印刷物「模型千円札」を制作したという(「自壊した絵画の内側」注9)。これは本人が言うように「自虐的」な作品である。しかし、それですむ話ではなかった。1965年に「通貨及証券模造取締法違反被擬事件」として起訴され、翌年第1回公判が開廷する。いわゆる「千円札裁判」である(1970年最高裁判決で有罪確定)。岩田信市が批判した芸術裁判の筆頭がこの裁判だったと思われる。

1960年代後半は、若者を中心に反権力闘争が高揚した時期である。こうした空気の中で千円札裁判は多くの関心をえた。裁判は赤瀬川に芸術について考えさせるとともに、芸術の外へと彼の背中を押す役割を果たしたようにも見える。そして当時の状況と絶妙な距離感を保ちつつものを言う、独特の「野次馬」パロディ感覚を獲得する。また、宮武外骨への関心、さらに今和次郎、吉田謙吉らの考現学を知り、路上観察への道が開けていく。そして、赤瀬川は1970年に美学校講師を引き受けるが、教育方針に考現学を据えた。

「生徒たちとじっさいに町へ出て、壁や電柱にあるビラ、ポスター、標識、看板といったメッセージ類の観察をはじめ、それが横道にそれて現代芸術遊びが生まれる。つまり路上に転がる材木やその他日常物品の超常的状態、道路工事の穴や盛り上げた土や点滅して光る標識などを見て、「あ、ゲンダイゲイジュツ!」と指でさす。これは概念となってなお画廊空間で生きながらえる芸術のスタイルへ向けたアイロニーでもあった。その延長線上で、1972年、松田哲夫、南伸坊とともに四谷祥平館の側壁に『純粋階段』を発見し、そこから『超芸術』の構造が発掘されて、後に『トマソン』と名付けられることになる」(「我いかにして路上観察者となりしか」注10)。

注7 「価値をつくる」『芸術原論』岩波同時代ライブラリー1991年(初出『ヘルメス』創刊号、岩波書店1984年を改稿)。

注8 赤瀬川原平、藤森照信、南伸坊による座談「街が呼んでいる」1985年11月、『路上観察学入門』1986年、筑摩書房(ちくま文庫1993年)

注9 「自壊した絵画の内側」『芸術原論』岩波同時代ライブラリー1991年(初出『アール・ヴィヴァン』21号、西武美術館、1986年を改稿)。

注10 「我いかにして路上観察者となりしか」『路上観察学入門』1986年、筑摩書房(ちくま文庫1993年)

ジャンル成立を阻む不完全な終末

こうして1970年代に赤瀬川は考現学方面に力を入れていく。ここで注意したいのは、1976年頃に「パロディに魅力を失って、その仕事に苦痛を」感じ始めたということ(注11)。これは彼の野次馬感覚に命を吹き込んでいた状況、1960年代後半から続いていた反権力闘争がすっかり風化してしまったことと無関係ではないだろう。状況と巧妙な距離感を保ちつつ生きぬいてきた芸術的野次馬が、状況からの自立を迫られ、それ自体で成立する形態、すなわち文化の一ジャンルになる必要が生じたのである。かくして赤瀬川たちの考現学「路上観察」は1970年代に深化し、1980年代に本格的な開花期を迎える。1986年に藤森照信、林丈二、一木努、南伸坊、松田哲夫らと「路上観察学会」を立ち上げる。
 岩田と赤瀬川の類似点は、かなりある。例えば岩田の主張する風俗、赤瀬川たちは使いたがらないようだが、考現学の必須用語の一つは風俗である。また、岩田はやりっぱなしのパフォーマンスから演劇的構造を整えたロック歌舞伎へ、赤瀬川の方は考現学の末裔を自負し、ともかく学会を名のる路上観察学会へ。さらにまた、先にロック歌舞伎についてアートやエンターテインメントといった区分では片づけられないと記したが、路上観察学会についても同様である。その好事的傾向からするとエンターテインメントと言いたくなるが、やはりそこからも距離がある。学問や芸術を脱皮した非芸術・非学問的文化と言うほかない。
 しかし、現時点で判断すると、ロック歌舞伎も路上観察も、結局のところジャンルとして成立することのないまま、そのピークは過去のものになりつつある。近代的な芸術や学術が本格的な終末を迎える時期ではなく、不完全な終末期だったことが、原因の一つだったのではないか。まだその時期ではなかったのである。芸術面に限って言えば、不完全な終末が彼ら自身の内面に表出していることが観察される。二人の芸術に対する終わることのない愛着について触れておこう。
 1995年の岩田信市的世界展に岩田は新作として、安井曾太郎風だと本人が主張する裸婦像などを出品して、絵画への執着を明らかにした。さらに岩田の葬儀の時に原智彦が明かしたことだが、岩田は最晩年まで裸婦像を描いていたという。赤瀬川にしても印象派もどきなど、絵画的世界への執着を、岩田よりはスマートに表明している。二人が少年期から愛してきた芸術、その本格的な終末はこれからである。だとしたら二人が追究した非芸術的文化、あるいはその生き方は、これからようやく大いなる参考例として意味をもってくるのではないだろうか。

注11『赤瀬川原平の冒険』「年譜」名古屋市美術館1995年


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