研究紀要

2020年6月5日/記

(美術の終末、芸術の終末⑤)

いけばな、その現代と古典 (前編)

三頭谷鷹史(みずたにたかし/美術評論家)

前衛いけばなの人 下田尚利

まずは私といけばなの関りについて書いておこう。私が本格的にいけばなに関わるようになったのは1990年代初頭である。当時のいけばな界には「現代いけばな」を名乗る人たちがいて、活動が盛んであった(注1)。第二次世界大戦後の「前衛いけばな」の流れを汲んで、1970年頃に台頭してきたのが現代いけばなである。そうした現代いけばな活動をしている人たちが私を迎え入れてくれたのである。美術からの越境であり、40代半ばでの途中参入であった。

前衛いけばな時代から改革を唱えて活動し、現代いけばなでもリーダー的存在であった下田尚利(注2)は、私の参入をとりわけ喜んでくれた。いけばな界の理解不能な慣習慣行を翻訳して語ってくれたのも彼であり、下田がいなければ、とうに撤退していただろう。その彼が一昨年(2018年)の暮れに亡くなり、私といけばな界の関わりは実質的に終わった。
 

ここで私的な感情を交えた話をあえて書いておきたい。私がいけばなに関わって数年経った頃だと思う。二人で会食をしていた時、突然下田が畳に両手をついて「三頭谷さん、すまない」と詫びたのだ。驚いて「下田さん、どうしたんですか」と尋ねると、「せっかく現代いけばなに関わってくれたのに、何も報いることができない」と言うのだ(注3)。両手をついたのは私より18歳も年上の人ですよ、彼が望むのなら関わり続けようと腹を決めた。

それから20数年、下田に協力し、また協力されながら、私はいけばなの批評と研究を続けた。そして一昨年、下田が入院したというので見舞いにいったら、「三頭谷さん、僕はもうじき死ぬ、その時は葬儀委員長をやってほしい」と頼まれた。大和花道という流派の家元でもあり、いけばな界のしかるべき人に頼むというのが普通である。私に頼むということは、「自分をいけばな改革者として見送ってほしい」という気持ちだと察して引き受けた。それから間もなくして亡くなったのである。

葬儀の委員長挨拶では、下田がこだわり続けた二つの事柄、「いけばな改革」と「平和への願い」について伝えさせてもらった。平和ぼけの平和ではない。満州事変の2年前に生まれ、多感な時期を戦時下で暮らした人の懸命な願いである。「日本の犯した過ちを忘れてはならない」と、生涯一貫して訴え続けた。下田にとって「いけばな改革」と「平和への願い」は、一体の事柄だったと思われる。
 

さて、これから、いけばなにおける「現代」や「古典」という問題を考えてみようと思う。ただ、今回の論考には、下田個人を論じるわけではないけども、彼の骨を拾うような気持ちが多少混じることになるかもしれない。
 

(注1) 現代いけばな作家のほとんどが、流派に所属しながら、流派の外で現代いけばな活動を行っている。一部の先鋭ないけばな作家が流派を横断して連帯する形なのである。美術でも1960年代までは公募団体所属のまま前衛運動に邁進したケースは多い。ただ、いけばなの人は教えることで生計を立てているので、それだけ流派依存の傾向は強く、無所属で活動をしている人は稀である。

(注2) 下田尚利(しもだ・たかとし) 大和花道初代家元・下田天映の長男として1929年東京に生まれた。1951年に工藤昌伸、重森弘淹、勅使河原宏、下田の4人で「新世代集団」を結成。当時もっとも若い前衛グループであり、社会派的傾向の「テーマ性いけばな」を提唱して「平和美術展」などに出品。1958年には中川幸夫や半田唄子らと「集団オブジェ」結成に参加するも、前衛運動は衰退。父との確執もあり、家を出ていけばな界から離れる。
 その後、広告制作会社を起業して経営。1973年『いけばな批評』創刊とともに編集同人として参加、社長業の傍ら批評活動を行う。父の死去によって1984年に家元継承、以後は創作を再開して現代いけばな展にも積極的に出品。
 1997年に現代いけばなの「13人の会(仮称)」結成、翌年正式名称「Fの会」となり、下田はリーダー的役割を担う。Fの会は様々な現代いけばな展を開催し、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」にも参加(2006~2012年)。2016年に「いけばなと私 下田尚利」(求龍堂)を出版。2018年死去。

(注3) 金銭や学術的評価がえられないことを気にされていたようだ。現代いけばなに関わると持ち出しが多いし、学術面でも古典研究なら業績になるが、現代いけばなでは無視されるのが落ち。確かに当時はそうだった。もちろん、いけばなへの越境に意義と手応えを感じていたから参入したのである。が、私が活動を続けるためには下田のバックアップが必須だったと思う。

いけばな、鍋一つのごった煮

いけばな界は、たいへん興味深い世界である。古さを尊び古式を守ろうとする傾向が強くありながらも、一方では、激しい前衛運動の歴史をもっている。この点が前衛運動の痕跡がほとんど見当たらない茶道とは大きく異なっているし(注4)、体質的な違いも生み出しているようなのだ。

美術の場合は、西洋文化流入による近代化の衝撃を、日本画と洋画の分離によって回避した。伝統を主に日本画が担い、海外の新動向を洋画で受け止めるといったように、とりあえず鍋二つに振り分けた。これが以後の発展の基礎になっている。いけばなの場合は鍋一つの発展であり、素材の味が混じり合うごった煮だが、それが今日まで続いている。だから鍋の中に好物のアヴァンギャルドがあるのでつまんでみたら、半分は保守本流の固さで歯が立たない、ということもある。しかし、ごった煮こそ「現代」と「古典」を考えるためのよい材料である。
 

いけばな界の様子について少し触れておこう。ただし、私はいけばな界の内部に立ち入ったわけではないし、それを許す世界でもない。いけばな界の中ではなく、周縁部をうろついての観察だと理解していただきたい。

まず驚くのは流派の数の多さだ。いけばな界には流派が何百とある。隣接分野に茶道があるが、この点はまったく様相が異なり、たいへん興味深い。一つ一つの流派が家元を頂点としたピラミッドだとするなら、いけばな界は、大小のピラミッドがひしめいている状態である。きわだって高い巨大ピラミッドといえば、室町時代にルーツをもつ最古最大の流派、老舗の池坊である。ただし市場を独占しているわけではなく、やはり巨大な小原流と草月流を合わせれば、池坊と対等な勢力になるらしい。

意外なのは、老舗の池坊に対抗できる二流派がともに近代流派であることだ。小原流は明治末、草月流は昭和初頭に成立している。また、以上を三大流派と呼ぶが、それ以外では江戸後期に成立した古流とか未生流とかは、分派している親類一族を集めると大流派になるらしい。
 

流派によって古典との関わり方はいろいろだ。古典は、美術の場合は誰にとっても古典というのが基本で、みんなの古典なわけである。しかし、いけばなの場合、個人よりも流派が優先する、少なくともそういう傾向にある。その流派の歴史を背景にして、例えば池坊では古いいけばな様式である「立花(りっか)」、古流系や未生流系では「生花(せいか)」を表看板にしている。一方、近代流派の小原流や草月流の場合は、当然ながら新しさが特徴となる。

しかし、実情はもっとややこしい。古典様式を表看板にしている流派でも、それとは別に、新しいいけばなを工夫し、カリキュラムに取り入れたり、発表したりしている。いけばなを習う人は現代人であり、いろいろな欲求をもっているので、そのニーズに応えようということなのだろう。

また、銀閣寺内に15年ほど前に新設された花務係では、立花より古い「立て花(たて花)」様式を表看板にしている。流派といったものではなく、規模もまだ小さいようだが、銀閣寺内にあることで注目を集めている(注5)。一般には馴染みのない古典様式が突然復活したことに注目したい。

(注4) 茶の分野にも改革派はいたようである。神津朝夫『茶の湯の歴史』(角川選書2009年)によると、1898(明治31)年に大日本茶道学会を旗揚げした田中仙樵は、流儀の否定・秘伝の開放を掲げて裏千家から分かれたとのことだ。しかし、「危機感をもってそれに対応した裏千家が、近代的な茶道流儀への転身」に成功したという。家元側が、家元制度を守りながら、一定の近代化を果たしたということか。その後、今日まで、前衛運動と呼べるような動きは見当たらない。

(注5) 足利義政ゆかりの東山慈照寺、いわゆる銀閣寺で、2004年に花務係が設置された。初代花方に珠寶(しゅほう)が就任し、以後は慈照寺研修道場の花方教授や国際交流などで活躍している。その表看板が、義政時代のいけばな様式である「立て花」である。立花よりも古い古典様式の復活である。立て花様式は、いけばな史的には周知のことだとしても、実践的な復活という意味では興味深い。

現代花をいけ、古典花をいける

前回、若手バレエダンサーの登竜門、有名なローザンヌ国際バレエコンクールで、コンテンポラリーとクラシックの両方が必須の課題になっていることに触れた。現代的バレエと古典的バレエの両方を踊り、審査されるわけだ。美術なら現代美術作品と狩野派作品の両方を制作して、審査を受けるといった感じだろうか。制作する側も審査する側もたいへんである。
 

現代と古典の並立という現象は、いけばな分野にもある。そうした事例を、現代いけばなのトップ作家である大坪光泉の作品集(注6)で見ておこう。1995年に出版された大坪の作品集には、「現代花」とともに、彼がいけた「古典花」が収録されている(注7)。美術家の個人作品集によくあるのが、作風の変化を追った収録だが、そうではなく、完全に2つのジャンルが並立している。(ただし、現代花に重きが置かれ、古典花の収録数は少ない)。

まずは現代花を見ておこう。例えばインスタレーションの《化粧する大根》は、多数の大根に白粉らしきものをほどこして空間に散りばめた作品である。《クレイジーナイト》は、多数の白菜を使ったオブジェ作品。チューリップを料理してベーコンエッグなどと一緒に食卓に並べた《O氏の朝食》というのもある。《「嵐の金曜日」を歌いながら》は、廃棄物の集積場に無数の花を散華した作品だが、パフォーマンス的傾向があると言ってよい。いずれにしても、これはいけばな?美術?と、誰もが思い悩むような作品群である。

器にいけた作品もある。ゴミをいけたり、茹でたロールキャベツをいけたり、ガラス花器に花を水没させたり。あるいは、わざと無技巧にいけたりする、非常に行儀の悪いいけばなである。

じゃあ古典花はどうかだが、こちらの方は非常に行儀がよい。伝統的な素材を使い、伝統的な規範に従っていけた、まさしく古典様式のいけばななのである。その一つ「蓮一色立華」などは、修練に修練を重ねて身につけた技術を惜しげもなく注ぎ込んだ古典花で、技巧の冴えと完成度の高さを誇っている。明らかに古典花でも彼はトップクラスだ。
 

最初に言っておこう、大坪の現代花と古典花、そのどちらも面白いし、深い感銘を受ける。が、しかし、これらは同じ芸術観から生まれたわけではない。また、同じ芸術観の下で感銘を受けるわけでもない。ここが肝要である。なにしろ立花(立華)は、二代池坊専好によって江戸時代初期に完成された古典花であり、成立基盤が現代花とは根本的に違っていると考えねばならない。

事実、大坪は、現代花作品には今日的な個人表現を濃厚に反映させたタイトルをつけながら、古典花にはタイトルをつけていない。先ほど触れた「蓮一色立華」もそうだが、「さざんか奥根じめいけ」「蓮一色二株砂物立華」など、素材、技法、様式名が記されているだけで、作家の個人性とか作品の個別性とかはないのである。だからこう言っておこう。「すばらしい古典様式作品である、しかし大坪個人の主張は見当たらない」と。また、「今回の立花の出来はすばらしい、しかし様式の範囲内の作品であり、学びの姿勢で何度も作るもの。だから出来不出来とか味付けの差異はあるけども、基本、個別性はない」と。
 

古典花の同時掲載は大坪自身の意志による。では、なぜ古典花をも収録するのか、私はこの本に収録する対談の相手を頼まれたので、その時に聞いてみた。ところが、やっかいな人で、なかなか本音を語らない。

大坪は「普通の人は掌が退化」しているという。で、古典花では植物に密に接触するから「古典花をやると、現代の便利な日常から原始に戻るんです。陶然となるんですよ」と語る。まあ、それはよいとして、それに続いて「この本に載せた古典花は自分の行き着いた誇らしい境地、というようなものではないですね。この程度ならいつでもできるよ、とうそぶいている姿」だと語る。自分で載せておきながら古典花を突き放すわけで、じゃあそれが本音なのかと思いたくなる。まあ、古典花を入れた方が本を売りやすいし。ところが、実はそうでもないようなのだ。別の機会に彼と話していた時、「私は立花師でもあります」と、誇らしげに言い放っていた。おそらくこれも本音、本当にやっかいな人である。

大坪光泉は極端な例かもしれないが、この二つの本音は、他の現代いけばな作家にも潜在していると私は感じている。現代花と古典花の背後に、かなり複雑な問題があるものと思われる。それについては「いけばな、その現代と古典」(後編)で考えてみたい。
 

(注6)  「現代のフラワー・アーティスト4 大坪光泉」京都書院、1995年。

(注7)  大坪は「古典花」と呼んでいるが、「伝承の花」と呼ぶ方が一般的かもしれない。ただし、伝承といった場合、事実上、流内だけでの伝承を意味することが多く、個別の流派に寄り添った言葉となる。

余談1 いけばな人口は200万人?

いけばなを教えたり学んだりしている人たちは、いったいどれくらいいるのだろうか。いけばな人口のことだ。それが意外に掴みづらく、よく分からないのである。長くいけばなに関りながら、放り出していた問題だが、今回、少し調べてみた。
 

日本の人口が約1億人だった1966年、その年の『人物往来』2月号で評論家の青地晨はこう記している。「日本のいけ花人口は、一千万といわれている。一千五百万から二千万という説もある」と。三大流派については「池坊百万、小原六十万、草月三十万というクロウト筋の説がある」とも(注8)。

その後はどうかだが、人口が約1.2倍となった1990年頃のいけばな人口を工藤昌伸が推測している。師範の数から弟子数を推定する苦肉の算出方法だが、池坊、小原、草月の三大流派で約480万人、その他を加えて1000万人超ではないかと(注9)。あくまで「正確な数値は不明」としているが、この世界を熟知した工藤の見解なので一定の目安になる。

ただし、バブル崩壊後、いけばな人口は明らかに激減した。2010年頃だったろうか、この事態に脅える声が私のような周縁部にまで聞こえてきた。いけばな界内部ではもっと早くからささやかれていたらしい。どのくらい減ったのかだが、いけばな界内部からは、各流派で流外秘になっているのか、明快な数値は出てこない。それならば、国民の生活行動から推測する手があるので、そちらから探ってみた。総務省の「平成28年社会生活基本調査」である。20万人程度のサンプル調査から国民の行動を推定していて、なかなか面白い。

その中の「趣味・娯楽」の調査アンケートにはいろいろな趣味・娯楽が示されていて、「一年間に何日ぐらいしましたか」の質問に1~4日、5~9日、10~19日、・・・・、200日以上、といった答え方をする。一年間に国民が楽しんだ趣味・娯楽の種類、人数、頻度などを把握する調査であり、統計が作られ、公開されている。

「華道」の項目もあり、総数(15歳以上で、1年に1日以上華道をやった人)が1,984千人となっている。約200万人。え、思ったより少ない・・・。しかも1年に「1~4日」「5~9日」程度でいけばな人口に加えていいのだろうか。せめて月に1日くらいはやっている人ということで計算すると、大幅に減って、約100万人。2016(平成28)年調査から見えてくるいけばな人口は、約100万人という結論に至る。
 

ただ、この調査アンケートの記入説明には「授業・仕事および家事」の場合は該当しないとある。趣味・娯楽の調査だからである。ただ、いけばなの場合、教え、学び、楽しむことが一体になっている人も多いから、この説明だと自分が該当するのかしないのか、けっこう迷いそうなのだ。職業的に成り立っていなくても、師範だと自覚している人は記入しなかった可能性がある。また、15歳未満の数も入っていない。そうすると100万人という数も相当にアバウトという感じである。これ以上突き詰めるのは無理なので、先ほどの200万人という数値に戻しておこう。しかし、それでも、1000万人超には遠く及ばない。

で、もう少し調べてみた。1986年の調査を見ると、約600万人なのである。それから15年後の2001年には約430万人と激減し、さらに15年後の2016年には約200万人になった。30年間で三分の一という、驚異的な減少なわけである(注10)。いけばな人口は時代とともに大きく変わってきたのである。

その後も減少が続いているだろうし、今年の新型コロナウイルス禍で減少のスピードがさらに加速すると推測される。間違いなく未来は非常に厳しいものとなる。しかし、この厳しさから目をそらしてはいけない。厳しいからこそ、いけばなに関する今までのシステム、手法、思考、すべてを再考する必要がある。
 

(注8)  青地晨「勅使河原蒼風」『人物往来』人物往来社、1966年2月号。

(注9)  工藤昌伸『日本いけばな文化史5』同朋舎出版、1995年。工藤昌伸(1924~96)。1951年に下田尚利ら4人で「新世代集団」を結成。前衛運動の衰退後は、いけばな研究者として活動。1973年『いけばな批評』創刊とともに編集同人として参加、その後も批評家・研究者として現代いけばなの作家たちに大きな影響を与えた。また、(財)小原流の事務局長、さらに(財)日本いけばな芸術協会の事務局長を務めるなど、いけばな界の全体を視野に入れる立場にあった。工藤の批評や研究は公明公平であり、忖度なく、前衛いけばな時代の良質な空気を伝える内容であった。著書に『日本いけばな文化史』全5巻などがある。

(注10)  いけばな人口は30年間で三分の一になったが、茶道は半減手前のところに踏みとどまっている。ただし、数は1600万人と、いけばなより少ない。また、いけばなは60代後半に人口ピークがあるが、40歳未満の年齢層ではガクンと落ちる。茶道も同様なのだが、茶道はなぜか10代にも一ピークがある。クラブ活動はカウントされるので、その数が影響しているのだろうか。

余談2 「古典」という言葉をめぐって

すでに「古典」という言葉を頻繁に使っているが、おそまきながらここであらためてこの言葉について触れておこう。

古典には示唆に富む深い内容があり、長い時を生き抜いてきた普遍性がある。私はそう思っている。が、注意も必要だ。特定の古典を個別に見れば、創作者、時代状況、運不運などが複雑に絡み合った動的な過程をへて、完成形、すなわち新しい古典が生まれ出るのではないか。古典作品をやたら美化するのではなく、背後に動的な過程があることを忘れないようにしたいのである。

実は「古典」という言葉そのものが動的であり、長い歴史の中では大きく変化してきた。文化史研究者の池田亀鑑は、もともとは中国に起源をもつ言葉であり、日本でも「中国古代の聖賢の経典をさしていたのであろう」と推測する。そして、近世国学では日本古代の文物を重視する傾向が強まり、中国起源の「古典」より、「ふるきふみ」「ふることぶみ」といった言葉を使うようになったという。さらに明治以降、西洋のクラシックと出会い、西洋のクラシックの概念と融合して今日的な用語「古典」になったというのである(注11)。いわば近代化した言葉なわけである。日本の文化全体の変遷に即した、順当な変遷という思いがする。
 

ところが、同じく中国に起源をもつ言葉に「風流」がある(注12)。こちらの言葉は近代化されたのかどうか、ちょっと怪しいのだ。小説家の佐藤春夫が1924(大正13)年に書いた「風流論」があって、この論評は、近代用語「古典」を念頭に置いた上で読むと、より興味深く読める。佐藤は次のように書いている(注13)。「現代人としての私、コスモポリタンとしての私。それらの私はたしかに風流などを馬鹿げ切ったものと信じている」「同時に、風流なるものを無視し去ることが出来ないところの伝統人としての私、日本人としての私を実にしばしば見るのである」と。

大正時代、近代化が進展する中で風流はすでに脇に追いやられていた。それでも佐藤には風流なるものが「蠱惑」する力をもつもの、「決して西洋の芸術から感得されない何ものか」という自覚があった。その佐藤によると、かつて谷崎潤一郎と風流についてよく話し合ったという。しかし谷崎は、風流の蠱惑の力を認めた上で、「菜食主義的の美食」と呼び、それが人々から青春を奪い、人々を消極的にするものとして怖れたという。のちの「陰翳礼讃」の谷崎とはずいぶんギャップがある。また、芥川龍之介は、谷崎から同様な話を聞かされていたらしいが、「谷崎のように何もああ戦慄するには及ぶまい」と語ったそうだ。
 

今日、古典という言葉を聞けば、人は誰でもあまり深く考えずに了解する。しかし風流と聞くと、ハテと思うかもしれない。扱いの難しい内容を指し示す言葉だったため、近代化の波に乗れなかったのであろう。近代化から外れることで、国民の多くが常用する言葉にはならなかった。が、それでも、どこか気になる言葉として今も生き残っているのが興味深い。余計な話だが、「風流」は「クール」に近いニュアンスをもつような・・・うむ、どうだろうか。

しかし、こんなことをいちいち考えていたのでは、言葉が使いにくくて困る。せいぜい頭の片隅に置く程度にして使っていくほかない。となると、この一文は、まさに余談だった。
 

(注11) 池田亀鑑『古典学入門』岩波文庫、1991年(『古典の読み方』至文堂、1952年を書名変更して復刻)。

(注12) 岡崎義惠『日本芸術思潮』第2巻の上(岩波書店、1947年)、第2巻の下(岩波書店、1948年)。

(注13) 佐藤春夫「風流論」『中央公論』1924年4月号。
 

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